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ユダの裏切り

「ユダの裏切り」  マタイの福音書 26:14-25  2008-8-17

ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男

今日は、マタイの福音書 26:14-25を中心テキストにして、「ユダの裏切り」という題でメッセージをします。このユダは、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。「イスカリオテ(イーシュ・カリッヨート)」とはヘブライ語で「カリオテの人」を意味します。カリオテとはユダヤ地方にある村の名前です。

イスカリオテとはヘブライ語で「カリオテの人」を意味し、カリオテとはユダヤ地方の村の名前。

どうして、わざわざ自分の生まれ育った村を自分の名前の前につけたのでしょうか。それは、イエス様の弟子たちの中にもう一人ユダと言う名前の人がいたからです。では、ここで質問です。それでは、イスカリオテのユダとは違う、もう一人のユダには別名がありました。その別名は何と言うでしょうか。正解は、タダイです。

タダイと呼ばれるユダ

タダイと呼ばれるユダもイエス・キリストの12弟子(使徒)の一人です。イスカリオテのユダがあまりにも有名なので、タダイと呼ばれるユダは影が薄くなっています。ユダと言うとイスカリオテのユダとすぐに出てきても、タダイと呼ばれるユダはなかなか出てきませんね。

この際、イエス様の12弟子の復習をしておきましょう。12弟子全部の覚え方があります。知ってますか。簡単に覚える方法を考えました。上野式12弟子暗記法です。知りたいですか。じゃあ、教えます。12弟子の最初の字だけを並べます。マタイならマ、ヤコブならヤと並べていきます。日本人に覚えやすい文を考えました。それはこうです。

「やまと ゆゆし ぴしゃ あばよ」

戦艦大和を知ってますね。「大和」が敵の攻撃を受けて、「由々し」い状態になりました。

「由々しい」というのは、「重大である。容易ならない」という意味

そこで、大和は、「ぴしゃ」と敵の攻撃をかわして、「あばよ」と去って行った、というストーリーを考えました。

「やまと ゆゆし ぴしゃ あばよ」です。

これを覚えたら、あとは、文字を当てはめていけばいいわけです。縦に読んで下さい。

コブ(大ヤコブ=ゼベダイの子)、ヨハネの兄弟
タイ
マス

ダ(イスカリオテ)
ダ(タダイ)
モン(ペテロ)・・アンデレの兄

リポ
モン(熱心党)
コブ(小ヤコブ=アルパヨの子)

ンデレ・・ペテロの弟
ルトロマイ
ハネ・・ヤコブの兄弟

さて、12弟子の一人であるイスカリオテのユダの話に戻りましょう。今日のメッセージの箇所を読んでいて、疑問に思った事がありませんか。イエス様は、あれだけ多くの人を助けるために数々の奇跡を行ないながら、なぜ自分の弟子の一人であるイスカリオテのユダをきちんと指導する事ができなかったのかということです。

そうは思いませんか。ですから、多くの人は、こう言います。イスカリオテのユダは、普通の人間ではなく、特別にどん欲で、悪い奴だったと・・・。こう結論づけると、なんとか辻褄が合います。

マタイの福音書を記したマタイは、後々まで残る聖書の記事を書くとき、教会にとってこのような恥ずべき事を隠しておいてもよかったはずです。こうするのを、くさいものにふたをすると言いますね。しかし、マタイは、敢えてこの恥ずべき部分をさらけ出して書きました。イエス様を裏切ったのを書いたという事は、どういう意味なのでしょうか。

それは、イスカリオテのユダのしたことは、何も特別なことではなく、普通の人間がすることなんだ、すなわち人間という者は、こういうものなんだということを示すためではなかったかと思います。人間の罪深い本質を暴き出しているのですね。即ち、イスカリオテのユダの歩んだ道が、私たちの歩みなんだということです。イエス様から教えられ、よいものをいっぱいもらって、一生この方について行くぞ、と固い決心をしても、何かあるとすぐに、裏切ってしまう・・・。

イエス様の一番弟子と言われたシモン・ペテロもそうでしたね。弟子たちの歩んだ道を見てみると、私たちの歩みと重なってしまうところがあるのではないでしょうか。

イスカリオテのユダが裏切る事はイエス様も知っておられた事がわかります、
マタイ26:21を見てみましょう。

みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」(マタイ26:21)

これを聞いた時の弟子たちの反応を見てみましょう。22節です。

すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。(マタイ26:22)

このときの弟子たちの気持ちを考えてみると面白いですね。人間は、こういうとき、すぐに誰か他の人のことを考えませんか。「あいつじゃないか、こいつじゃないか」と。しかし、弟子たちは、「主よ。まさか私のことではないでしょう」と、言ったのです。

これはどういう気持ちを表しているのでしょうか。「主よ。まさか私のことではないでしょう」ということばの奥深くに、ひょっとしたら、自分が裏切ってしまうのかもしれないという、何やら得体の知れない恐ろしい気持ちがあったので、こんな聞き方をしたのではないかと思います。弟子たちは、イエス様を慕っていながらも、自分の内側にある何とも言えない罪深さに怖れおののきつつ、それを自分の力でコントロールできない自分自身について葛藤していたのではないでしょうか。イエス様は言われました。23節です。

イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
(マタイ26:23)


続けて厳しい事を言われます。24節の後半です。

「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:24)

このときのユダの反応を見てみましょう。25節です。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。
「先生。まさか私のことではないでしょう。」(マタイ26:25


こんなことを言う者に対して、私たちは普通どう言いますか。そうですね。
こんなときは、「しらばっくれんじゃねえぞ!この野郎!」ということばがピッタリです。

でも、ユダの気持ちをよく考えてみると、意外と本音で正直な気持ちを言っているのではないかなと思うのです。イエス様から、「生まれなかったほうがよかった」とまで言われるようなひどいことはしていない、少しは悪いとは思うが、そこまでの悪い事ではないでしょう、という気持ちです。

私たちにもそういうところはありませんか。そのように考えるなら、ユダは特別に悪い事をしているのではない、人間の弱さの延長上にこの行動が出て来たととらえることができます。つまり、これは、2千年前にユダという悪い奴がいて、イエス様を裏切ったのだと見るのではなく、現代に生きる罪深い私たち自身の姿なのだということです。

もう一つ、今日の聖書箇所での疑問点をあげてみましょう。それは、イエス様はどうして、自分を裏切る者と一緒に食事の席につかれたのでしょうか。もう一度、23節を見て下さい。

イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」(マタイ26:23)

「鉢に手を浸す」とはどういうことでしょうか。新共同訳聖書は、わかりやすく訳しています。

「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」
(マタイ26:23)<新共同訳聖書>


当時、ユダヤ人にとって、一緒に食事をするということは、特別に親しい交わりを意味しました。普通、裏切る事がわかっている者と一緒に食事をして親しい交わりをもつことはしません。しかし、イエス様はユダの裏切りをわかっていながら、敢えて、彼と食事をされました。イエス様は、裏切りを知っていながらも、それを止める事をなさらなかった。じゃあ、イエス様も同罪になってしまうではありませんか。

そうなんです。イエス様は、全部知っていながら、ユダと食事をされ、敢えて裏切りを止める事をなさらなかったのです。なぜですか。それは、ユダの罪を自分の罪とされたからです。罪深いユダの生き方を自分の生き方とされたのです。

イスカリオテのユダは、罪深い私たちの代表です。私たちの罪深い姿をユダの中に見る事ができます。イエス様は、「お前は何と言う奴だ。またこんな罪を犯して!この馬鹿者!」とさばかれるお方ではありません。主イエス御自身が、罪深い私たちと一つになって下さったのです。そして、その罪故に、罪のさばきの身代わりとして十字架にかかってくださった。
ここに、私たちに対するイエス様の深い愛を見る事ができます。

イエス様の十字架を通しての救いは、とてもじゃないが救われないと思われる者のための救いです。

今日、もう一度、イエス様が私たちのためにどんなことを十字架でして下さったのか思い起こしてみましょう。最後に、第一ヨハネ3:16を読んでお祈りしましょう。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3:16)

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