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賢い娘と愚かな娘

「賢い娘と愚かな娘」  マタイの福音書 25:1-13      2008-7-27

ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男

今日は、マタイの福音書 25:1-13を中心テキストにして、「賢い娘と愚かな娘」という題でメッセージをします。

最初にこのエンブレムを見ていただきましょう。

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これはあるミッションスクールのエンブレムです。どこの学校かと言うと、下にローマ字で書いてありますね。大阪にある有名なミッションスクールである大阪女学院のエンブレムです。制服にも使われています。明治17年(1884年)1月7日、A.D.ヘール宣教師が『ウヰルミナ女学校=維耳美那女学校=Wilmina Girl's School』を、米国カンバーランド長老教会のミッションスクールとして、西区川口町外国人居留地22番地に創設、開校しました。それが、大阪女学院のはじまりです。最初の生徒数は3名でした。それから、もう125年の伝統を持っています。

それが今日のメッセージと何の関係があるのか、と思われる方がいるかもしれません。この五角形の中に描かれているのは、何かわかりますか。10人の娘が描かれています。マタイ25に出てくる10人の娘たちのことです。

ヨハン・セバスチャン・バッハという有名な音楽家がいますが、バッハはこの10人の娘たちの物語を題材にしてカンタータを作りました。

バッハ

このカンタータは、当時結婚式でよく歌われたほど、大変好まれていたといわれています。カンタータって、何かご存知ですか。辞書には次のように出ていました。

カンタータ【(イタリア)cantata】・・17、18世紀のバロック時代に発展した声楽曲の一形式。独唱・重唱・合唱などに器楽・管弦楽の伴奏がついた大規模な声楽曲。

このマタイの福音書25章は、イエス様が十字架にかかられる前に話されたたとえ話です。マタイ25:1を見てみましょう。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。(マタイ25:1)

普通、死ぬ事がわかっている場合、喜びの象徴である結婚式のことを話す事はしません。しかし、イエス様は、ご自身の十字架の死を前にして、結婚式を天の国にたとえて話されています。自分の死を前にして喜びを語るというイエス様のお気持ちを考えてみましょう。それほど、イエス様は、弟子たちに天の国の喜びを伝えたい気持ちでいっぱいだったのでしょうね。

1節に言われているように、「十人の娘」は、花婿を出迎える「花嫁の友」たちです。花婿を出迎える「花嫁の友」たちと言われても、ピンときませんね。アメリカの結婚式では、花嫁を迎えるのは、花婿と花婿の友達、花嫁の友達ですよね。そこに花嫁が父親に連れられて登場します。

ところがユダヤの結婚式は違います。花婿を出迎える「花嫁の友」たちというのは、ユダヤの結婚式の習慣です。ユダヤでは、婚約期間もすでに夫婦のように見られます。ユダヤの結婚式は、婚約して約1年後、法律上すでに夫婦となっていた二人の実質的な夫婦生活が始まることを祝う喜びの祝宴です。その祝宴は、花婿の家で開かれるのが普通で、花婿は夕方になってから花婿の友と一緒に、花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。結婚式が夜に行われるというのもユダヤの結婚式の特徴です。花婿の友人が音頭を取り、花嫁の友人が美しく着飾り、二人を祝宴の席に導き、盛大なパーティーが開かれます。ユダヤの結婚式は、こういうスタイルだとわかっていると、このたとえ話もわかりやすいと思います。

この習慣は日本人にはわかりやすいですね。日本では、「妻をめとる」と言います。めとるって漢字で書けますか。

娶る(めと・る)・・《「妻(め)取る」の意》妻として迎える。

上に「取る」を、下に「女」を書いて、「娶る」です。取るというと、花嫁をかっぱらってくるようなイメージがありますが、もっと優しく優雅に言うと、「妻として迎える」ということです。こうしてみると、日本人の結婚思想とユダヤ人の結婚思想は似ていますね。

さて、マタイ25に戻ります。花嫁の友人の娘たち10人は、家の前であかりをともして花婿を待っています。この10人の娘たちは、非常に重要な役割をもっていました。彼女らは、新郎新婦のお供をして婚宴の席に入るために選ばれた娘たちでした。この10人の娘たちが、二つのグループに分けられています。愚かな5人と、賢い5人です。2節です。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。(マタイ25:2)

花婿がなかなか来なかったので、10人の娘たちはみんなうとうとと眠り込んでしまいました。夜中になって、「さあ、花婿が来たぞ!」という声がしました。娘たちは、跳ね起きて自分のともしびを整えました。ここで、愚かな娘たちと、賢い娘たちの違いがはっきりとわかるようになります。愚かな娘たちが、賢い娘たちに言います。8節です。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』(マタイ25:8)

賢い娘たちは、どんな対応をするでしょうか。9節です。

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』(マタイ25:9)


なんか、意地悪な感じがしませんか。そこで仕方なく、お店に行くと、その間に花婿が来てしまいました。賢い5人の娘たちは、祝宴に行き、ドアが閉められてしまいました。10節です。

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(マタイ25:10)

後から行った愚かな5人の娘たちは、私たちも入れて下さいと頼みましたが、入れてもらえませんでした。11節、12節です。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。(マタイ25:11-12)

厳しいですね。かわいそうですね。
こんなたとえ話ですが、話の中で気になる事があります。
予備の油を準備していな語った娘たちが、「私たちにも少し分けて下さい」と頼んだときに、どうして、分けてあげなかったのでしょうか。

「あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません」ということばに注目して下さい。ということは、全然なかったわけではないのですね。少しでも分けてあげるのが隣人愛ではないかと思いませんか。イエス様はどうして、「分けてあげなさい」と、言われなかったのでしょうか。

それは、「賢い娘」の「賢い」ということばにヒントがあります。「賢い」と日本語に訳されている原文のギリシア語では、フロニモスということばが使われています。フロニモスということばは、「思慮深い」という意味です。

「賢い」と日本語に訳されているギリシア語 → フロニモス〈ギ〉=「思慮深い」

イエス様が、ここで言われている事は、「賢い娘のように道徳的に立派に真面目に生きなさい」ということではありません。灯りをともす油を準備していた娘たちを、賢い娘、即ち、フロニモス「思慮深い」娘たちだと言っておられるのです。このたとえ話では、必要なものを準備することの大切さが、語られています。

昨日は、エリックと祐美子さんの結婚式を執り行わせてもらいました。コスタメサにあるお店の野外の素敵なお庭でしました。いろんな事情があって、リハーサルなしでしました。プログラムが進んで、私と花婿のエリックが、花嫁の祐美子さんを迎えました。花嫁の入場です。祐美子さん綺麗でした。お祈りが終わり、メッセージが終わって誓約に移ろうとするとき、祐美子さんが言いました。
「指輪を渡すのを忘れた!」
指輪は前もって、私が預かることになっていました。私も、うっかりしていました。誓約の後に、指輪交換があるので、エリックと祐美子さんと私の3人は、「えらいこっちゃ!」と思って、固まってしまいました。祐美子さんが「指輪がない!No ring!」と叫びました。前代未聞です。エリックのお父さんが急いで取りに行ってくれました。よく準備をしておかないと本番でえらい目に会います。

ともしびの予備の油を準備していなかったので、5人の娘たちはえらい目に会いました。油は何を意味するのでしょうか。聖書学者たちは、いろんな解釈をします。
一般には、「聖霊」とか「祈り」と解釈されています。そのように解釈しても間違いとは言えません。

けれども、イエス様は、油が何か、何も説明しておられません。 何も説明しておられないということは、私たち一人一人に、ふさわしい油があるということではないかと思います。
ですから、「油を分けてください」と頼む愚かな娘たちの願いを拒んだのは、決して意地悪からではありません。人に頼ることができないもの、自分の責任においてしか灯すことができないものがあることを示しています。

例えば、信仰告白のことを考えて下さい。いくら、心を込めて誠実に話しても、最終的には、その人、本人が罪を告白してイエス・キリストを個人的に救い主と受け入れなければなりません。親でも親友でも、恋人でも、夫婦でも代わってしてあげることができないのです。

花婿は誰を表していますか。イエス・キリストです。先週のメッセージ、マタイ24章でも触れました。花婿が突然やってくることは、イエス様がもう一度この地上に来られること、即ち、キリストの再臨のことを言っています。イエス様が再び来られるときは、婚礼のように喜びの日となります。その日に備えて、私たちがあかりを灯しているかどうか問われています。更に、あかりを灯し続ける油を十分に準備しているかもが問われていると思います。イエス様は言われます。13節です。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25:13)

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