スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

あざけられたイエス

「あざけられたイエス」  マタイの福音書 27:27-42   2008-8-24


ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男



今日は、マタイの福音書 27:27-42を中心テキストにして、「あざけられたイエス」という題でメッセージをします。マタイの福音書 27章は、イエス様が十字架につけられる箇所です。今日は、イエス様が十字架につけられる直前のところをご一緒に見てみたいと思います。
今日の聖書箇所マタイの福音書 27:27-42を見ると、「ユダヤ人の王さま」「ユダヤ人の王」ということばが出てきます。また、「イスラエルの王」ということばも出てきます。これらはみんな同じ意味です。このことばは、誰のことを言っているのでしょうか。そうですね。イエス・キリストのことです。その一つ一つを見てみましょう。まず、29節です。


それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」(マタイ 27:29)


「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」ということばに注目して下さい。これを言ったのは誰ですか。27節を見ると、「兵士たち」だとわかります。彼らは、本当に万歳と言ってイエス様を賞賛したのではありませんね。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言って、次に何と書いてありますか。新共同訳聖書には、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、「侮辱した」と書いてあります。

ここでおかしいなと思う事はありませんか。
王様ともあろうものが、なぜこんな惨めで悲惨な目にあったのかということです。
マタイの福音書2:1-2を見ると、イエス様が生まれた直後のことが書かれています。
イエス様が生まれた事を聞いた東方の博士たちがエルサレムにやってきて言います。


ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。(マタイ2:2)


彼らはイエス様を「ユダヤ人の王」と認めていました。また当時、ユダヤの地方を治めていたヘロデ大王も、「ユダヤ人の王」であるイエス様が生まれたと聞いて、怖れおののき、殺そうと計画しました。学者たちが拝み、ヘロデ大王が怖れた「ユダヤ人の王」イエス・キリストが、いとも簡単に捕まえられ、罵られて、十字架にかけられて死んでいきます。これは、王様としては、まったくふさわしくない姿です。


しかし、聖書は、十字架にかかったイエス・キリストこそが王としての本当の姿だと言うのです。なぜでしょうか。この疑問を解くために、ユダヤ人のことを考えてみましょう。
ユダヤ人とはどんな人たちだったでしょうか。旧約聖書を読んでいくとわかりますが、本来、彼らは神から選び分たれた者たちでした。神から愛されているにもかかわらず、繰り返し、繰り返し神に逆らいました。従って、ユダヤ人は罪人の典型と言うことができます。


イエス・キリストがユダヤ人の王になられたということは、この罪深いユダヤ人の王になられたということなのです。即ち、罪人の代表になられたということです。罪のためには、さばきがあります。そのさばきを、十字架で身代わりに受けてくださったのです。ことばを変えて言えば、民の罪のために身代わりとして死ぬことが王としての努めだったというわけです。


ここで、罪人の代表となって、十字架に掛けられたイエス様をあざけっている人たちのことを見てみましょう。ここには、3種類の人たちが出てきます。


(1)ローマ軍の兵士たち
(2)一般のユダヤ人
(3)ユダヤの指導者たちである祭司長、律法学者、長老たち


兵士たちから見ていきましょう。先ほど見たように、兵士たちはイエス様を侮辱しましたが、その後どうしたでしょうか。30節です。


また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。(マタイ 27:30)


2番目は、一般のユダヤ人です。イエス様が十字架にかけられたとき、その辺にいたユダヤ人たちはイエス様に対してどう言ったでしょうか。39-40節です。


道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ 27:39-40)


最後は、ユダヤの指導者たちである祭司長、律法学者、長老たちです。
41-42節です。


同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。(マタイ 27:41-42)


兵士たちも、一般のユダヤ人たちも、宗教指導者たちも、みんなそろって、まあ、なんてひどいことをイエス様に言ったのでしょうか。そう思いませんか。だってイエス様は、そんなひどいことを言われるような罪を何も犯していないわけですから。
でも、視点を変えてよく考えてみると、彼らの言っている事は、間違ってはいないと言えます。どういうことでしょうか。それは、彼らのひどいことばが、罪人とはどれほどみじめで、どれほど愚かであるかということを証明しているからです。
罪人とは、つばきをかけられて、棒切れで叩かれても、何の反抗もできない存在なのです。
罪人とは、「自分を救ってみろ」と言われても、自分で自分を救えない、どうすることもできない存在なのです。苦しみもがいている自分自身を、自分の力ではどうすることもできない、これは罪人の現実の姿なのです。この場面は、「罪人が受ける仕打ちとは、こういうものだ」と神様がイエス様を通して私たちに見せて下さっているのです。その仕打ちを、イエス様が代表して受けて下さっています。


イエス様を罵っているローマ軍の兵士たち、一般のユダヤ人、ユダヤの指導者たちである祭司長、律法学者、長老たちのことを考えてみましょう。彼らもみんな罪人です。しかし、彼らは、自分の罪に気づいていません。だからこそ、こんなひどいことを言っています。罪深い者たちが、罪人の代表となって下さったイエス様にひどいことを言っています。これはどういうことでしょうか。自分で自分をあざけっているということなのです。このとき、自分で自分の罪深さを気づいていないからこそ、よけいにみじめなのです。そして、これが多くの人の姿なのですね。
証しや伝道をすると、よく聞くでしょう。
「私は、警察に捕まるような悪い事はしてませんよ」
「これぐらいは、みんなやっていることじゃないですか」
「あなたも罪人ですよ」と言われると、怒り出す人もいます。
「人を罪人扱いしやがって、お前はナニ様だ!俺はあんたから罪人なんて呼ばれる筋合いはない!」


デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの代表作である『裸の王様』をご存知でしょうか。1837年発表ですので、日本では江戸時代の終わり頃です。1837年といえば、大阪で大塩平八郎の乱が起こった年です。それはさておき、『裸の王様』はこんな話です。


新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来ます。彼らは何と、馬鹿者には見えない不思議な布地を織る事ができると言います。ということは、賢い者には見えるということです。王様は大喜びで注文します。仕事場にでき具合を見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えません。王様はうろたえますが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかありません。家来は家来で、自分たちにも見えないのですが、そうとは言い出せず、同じように衣装を褒めます。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨みます。見物人も馬鹿者と思われてはいけないと思い、同じように衣装を誉めます。しかし、しばらくたって見物人の中の小さな子供の一人が、大声で叫びます。
「王様は裸だよ!」


この童話はどんなことを言っているのでしょうか。現実を見る事のできない滑稽さを言っているのですね。多くの人は、自分がどれほど罪深いかという現実を知りません。また、知ろうとしません。もし、知ったならその現実に愕然として、その解決はどこにあるのか求めるはずです。


罪深さを意識していようが、いまいが、人間はみんな罪人です。
ローマ人の手紙3:23に、このように書かれています。


すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができず、(ローマ3:23)


だからこそ、イエス様は、人間の罪を全部背負って、十字架にかかり、ひどい仕打ちを受けて下さったのです。


先ほど、罪人の姿はみじめなものだと申し上げました。罵られて当然、バカにされて笑われて当然、侮辱されて当然なのです。人は、罪人の惨めな姿を見て笑います。
先ほどの童話に出てきた裸の王様を見て、パレードを見物していた人の中には、心で笑っていた人もたくさんいたと思います。変な格好をしていると人は笑うのです。


しかし、神様はそんな哀れな人間の現実を見ても笑われる事はありません。それどころか、そんな惨めな私たち罪人を見て憐れんでくださり、イエス様を十字架にかけて下さったのです。ここに救いがあります。私たちがどれほど変な姿でも、惨めでも、ぼろぼろでも決して、無視したり、軽視したり、バカにすることはなさいません。そんな神様が私たちとともにいてくださるのです。ここに私たちの希望があります。


私たちは、よく考えます。「こんな私は、神様の前に立てるのだろうか」と。こんなことをいくら考えて、悩んだところで神様の前に立つ事はできません。なぜなら、どんなに一生懸命に頑張って努力しても、修行しても100%完全で正しい人間になることができないからです。
神様は、私たちがどんな格好をしているか、どんな状況かということを問うておられません。
それは、私たちが勝手に気にしているだけです。そのままの姿で神様のもとへ行く事、それが神様のお心なのです。「こんな罪深い私ですが、全部あなたにお委ねします」と決心して従うときに、私たちは変えられていくのです。この継続が信仰の成長につながるのです。
最後に、ローマ人の手紙5:8を読んでお祈りしましょう。


しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ人5:8)



(Copyright 2009(C) Itsuo Ueno. All rights Reserved.)
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。