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復活による逆転劇

「復活による逆転劇」 マタイの福音書 28:1-15   2008-8-31


ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男



今日は、マタイの福音書28:1-15を中心テキストにして、「復活による逆転劇」という題でメッセージをします。マタイの福音書 27章では、イエス様が十字架につけられ亡くなられます。今日の箇所28章では、死なれたイエス様が3日目に死を打ち破って復活されます。
今日は、弟子たちの姿を中心に追っていきながら、復活を通してどのように変えられていくか見てみましょう。イエス様をつかまえるために、祭司長や長老たちから送られた群衆がイエス様と弟子たちのところにやってきました。もうイエス様が捕まえられるとわかったとき、弟子たちはどうしたでしょうか。マタイ26:56の後半を見てみましょう。


そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。(マタイ26:56)


「弟子たちはみな」ということばに注目して下さい。一人ぐらいなら、まあ、そういう奴もいるか、仕方ないなあって思いますが、「みな」ですよ。
自分の師匠が捕まえられてしまう。こういうときこそ、弟子は体を張って師匠を守るべきではないかと思いますが、人間ってこういう者なんですね。弟子たちを通して、人間の弱さを見る事ができます。
逃げてしまったものの、捕まえられたイエス様が気になって、こっそりついて行った弟子がいました。誰ですか。そう、ペテロですね。大祭司の中庭までついて行ったものの、女中たちに「キリストの仲間ではないのか?」と聞かれて、ペテロは否定してしまいます。結局、彼は裏切り者となります。イエス様は、祭司長や長老たちから訴えられ、厳しい訊問にさらされていたとき、弟子たちはどこにいて何をしていたのでしょうか。群衆たちがイエス様を「十字架につけろ!」と、騒ぎ立てているとき、弟子たちはどこにいたのでしょうか。ローマの兵隊から、つばきをかけられて侮辱され、むち打たれて肉が裂け、体が血まみれになって苦しんでおられるエス様を想像して下さい。そのとき、弟子たちはどこにいたのでしょうか。十字架につけられて、悶絶の苦しみにあるときも、尚、イエス様はあざけられました。そのとき、弟子たちはどこにいたのでしょうか。
マタイ27:50に、イエス様の最期の様子が書かれています。


そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。(マタイ27:50)


普通、人間最期のときは、一番大切な人にみとられていきたいものです。
イエス様の場合、どうでしょうか。イエス様を愛する者たちにみとられるどころか、ののしりと侮辱のことばを浴びせられながら、息を引き取られたのです。
そのとき、イエス様から教えられ、お世話になった弟子たちはどこにいたのでしょうか。


弟子たちは、多くの人たちから、「裏切り者め!」と非難を浴びてもおかしくはありません。
しかし、ここで視点を変えて、逃げてしまった弟子たちの立場になって彼らの気持ちを考えてみましょう。
「祭司長や長老たちから差し向けられた群衆たちがやってきたときは、多勢に無勢で勝てる見込みがなかった。自分たちも捕まえられて殺されるのは嫌だった。だから逃げたんだよ。なるほど、イエス様は生きておられるとき、多くの病人を癒された。数々の奇跡も行なわれた。イエス様は、すごい人だった。死んでから復活するなんてことも言っておられたなあ。でも、死んでしまえば、人間、終わりじゃないか」こんな気持ちではなかったでしょうか。この世の常識は、死んでしまえば終わりなんです。
どんなに凶悪な犯罪を犯しても、死んでしまえば刑事責任を問う事はできません。死んだ者に対しては何も言う事もできないし、なんの反応も返ってこないのです。
「信じて従ってきた師匠が死んでしまった。飯も食わせてもらって世話になってきた。でも、十字架で殺されてしまった。だから、これからは自分たちでなんとかして生きていくしかないじゃないか」
こんな気持ちをもった弟子たちは失望したことでしょう。死はすべての希望を打ち砕いてしまいます。死は人間を絶望に陥れてしまうのです。


十字架で死んだイエス様が、墓に葬られます。その後で、祭司長、パリサイ人たちがピラト総督のところへ行って奇妙なことを言います。マタイ27:63-64です。ここを短く要約します。


「キリストは、死んでから三日目に蘇ると言っていました。だから、兵隊に墓の番をさせて下さい。そうでないと、弟子たちがキリストの遺体を盗んで蘇ったというかもしれません」


ここで考えてください。弟子たちは、キリストの死体を盗みに行くと思いますか。
状況を整理してみましょう。


1)ローマの兵隊はよく訓練を受けた屈強なプロ集団です。アリ一匹をも通さないように目を光らせています。一方、弟子たちは盗みのプロではありません。失望の中にある素人集団です。そんな強い兵隊たちが番をしているところに、弱々しい弟子たちはのこのこと出かけて行くでしょうか。
もし、行くとしたら、結果は火を見るよりも明らかです。

2)死体を盗む目的がわかりません。死体を盗んでどうするんですか。マタイ27:62を見ると、「次の日」と出ています。これはイエス様が死んでから翌日という意味です。死体をほっておくと、どんどんと腐敗が進んでいき、ものすごく臭くなります。
以前、うちで飼っていたうざぎが死んだとき、家内と子供たちで裏庭に埋めました。
土の中に埋めても、土を通してもにおってくるのです。そのときの臭かったことを今でも忘れません。鼻が曲がりそうでした。死んで腐敗が進んでいるイエス様の死体を盗んで、「主イエスは復活した」と言うとしたら、弟子たちは笑い者にされてしまいます。それに、失望のどん底にある弟子たちにそんな気力はなかったことでしょう。


人間の目で見て、絶望感でいっぱいの状況を打ち破ったのが、復活です。
安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来たとき、天使が現れて、キリストが復活したと告げます。マタイ28:5-6を見てみましょう。


すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。(28:5-6)


これを聞いた女たちは、弟子たちのところへ駆けつけます。その途中でイエス様が女たちに現れて下さいます。イエス様は、婦人たちに弟子たちへ伝言するように言われます。それは、主イエスが先にガリラヤへ行かれるという伝言です。
ガリラヤ、そこは弟子たちが生まれ育った所です。またイエスに従っていってイエス様のさまざまな御業を見た所です。イエス様からいろんなことを教えてもらって訓練を受けた所です。
また、ガリラヤは弟子たちの故郷です。そこは、何かあれば、逃げ帰って行く所です。
落ちぶれて帰って行く場所です。そこでまた主イエスにお目にかかれるというのです。
自分の弱さを嘆き、自己嫌悪に陥って、逃げ帰って行くところに先にイエス様が行って待っていて下さるというのです。自分を裏切った弟子たちをこのように扱って下さるイエス様の愛はなんとすごいのでしょうか。


女たちからイエス様の伝言を聞いた弟子たちは、ガリラヤへ行きます。失意の中にあった弟子たちも、復活すると言われた生前中のイエス様のお言葉を思い出したのでしょうか。そこで、実際にイエス様に会った時、弟子たちはイエス様を礼拝しました。しかし、ある者は疑ったとあります。
マタイ28:17です。


そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。(マタイ28:17)


男は理屈でものを考えますから、疑った弟子もいたのでしょう。この弟子はだれか書いてないのでわかりませんが、後で信じざるを得なかったと思います。最初、ほんとに復活のイエス様かなと思いますが、復活のイエス様といる時間がたつにつれ、ほんとだと認めざるを得なくなります。
その後、弟子たちが福音宣教の働きができるように、励ましのことばを与えられます。
マタイ28:20です。


また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)



 「復活」という言葉は、原語のギリシャ語でアナスタシスと言います。
アナスタシスには、立ち上がるという意味が含まれています。
弟子たちは、失望の中にいるとき、復活の主に出会ってもう一度、励ましを与えられます。
そして、主の働きをするという大きな人生の目標を与えられます。そのとき、「いつもあなたたちと共にいる」と励まされて、再び立ち上がるのです。
再び立ち上がる力を与えてくださるお方が、私たちの救い主、復活の主イエス・キリストです。


私たちの人生には、いろんな試練や困難がやってきます。時には、次から次とやってきて、落ち込んで失望してしまうときがあります。そんなときに、復活の主が私たちに現れて下さり、励ましのことばをかけて下さるのです。弟子たちにかけられたあのことばです。


見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)


苦しいとき、私たちは一人ではありません。苦しみの中にあるとき、私たちを抱きかかえて励まして下さる復活のイエス様がいて下さるのです。
もう一度、20節にある復活のイエス様のことばを読んでみましょう。


見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)



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あざけられたイエス

「あざけられたイエス」  マタイの福音書 27:27-42   2008-8-24


ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男



今日は、マタイの福音書 27:27-42を中心テキストにして、「あざけられたイエス」という題でメッセージをします。マタイの福音書 27章は、イエス様が十字架につけられる箇所です。今日は、イエス様が十字架につけられる直前のところをご一緒に見てみたいと思います。
今日の聖書箇所マタイの福音書 27:27-42を見ると、「ユダヤ人の王さま」「ユダヤ人の王」ということばが出てきます。また、「イスラエルの王」ということばも出てきます。これらはみんな同じ意味です。このことばは、誰のことを言っているのでしょうか。そうですね。イエス・キリストのことです。その一つ一つを見てみましょう。まず、29節です。


それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」(マタイ 27:29)


「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」ということばに注目して下さい。これを言ったのは誰ですか。27節を見ると、「兵士たち」だとわかります。彼らは、本当に万歳と言ってイエス様を賞賛したのではありませんね。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言って、次に何と書いてありますか。新共同訳聖書には、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、「侮辱した」と書いてあります。

ここでおかしいなと思う事はありませんか。
王様ともあろうものが、なぜこんな惨めで悲惨な目にあったのかということです。
マタイの福音書2:1-2を見ると、イエス様が生まれた直後のことが書かれています。
イエス様が生まれた事を聞いた東方の博士たちがエルサレムにやってきて言います。


ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。(マタイ2:2)


彼らはイエス様を「ユダヤ人の王」と認めていました。また当時、ユダヤの地方を治めていたヘロデ大王も、「ユダヤ人の王」であるイエス様が生まれたと聞いて、怖れおののき、殺そうと計画しました。学者たちが拝み、ヘロデ大王が怖れた「ユダヤ人の王」イエス・キリストが、いとも簡単に捕まえられ、罵られて、十字架にかけられて死んでいきます。これは、王様としては、まったくふさわしくない姿です。


しかし、聖書は、十字架にかかったイエス・キリストこそが王としての本当の姿だと言うのです。なぜでしょうか。この疑問を解くために、ユダヤ人のことを考えてみましょう。
ユダヤ人とはどんな人たちだったでしょうか。旧約聖書を読んでいくとわかりますが、本来、彼らは神から選び分たれた者たちでした。神から愛されているにもかかわらず、繰り返し、繰り返し神に逆らいました。従って、ユダヤ人は罪人の典型と言うことができます。


イエス・キリストがユダヤ人の王になられたということは、この罪深いユダヤ人の王になられたということなのです。即ち、罪人の代表になられたということです。罪のためには、さばきがあります。そのさばきを、十字架で身代わりに受けてくださったのです。ことばを変えて言えば、民の罪のために身代わりとして死ぬことが王としての努めだったというわけです。


ここで、罪人の代表となって、十字架に掛けられたイエス様をあざけっている人たちのことを見てみましょう。ここには、3種類の人たちが出てきます。


(1)ローマ軍の兵士たち
(2)一般のユダヤ人
(3)ユダヤの指導者たちである祭司長、律法学者、長老たち


兵士たちから見ていきましょう。先ほど見たように、兵士たちはイエス様を侮辱しましたが、その後どうしたでしょうか。30節です。


また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。(マタイ 27:30)


2番目は、一般のユダヤ人です。イエス様が十字架にかけられたとき、その辺にいたユダヤ人たちはイエス様に対してどう言ったでしょうか。39-40節です。


道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ 27:39-40)


最後は、ユダヤの指導者たちである祭司長、律法学者、長老たちです。
41-42節です。


同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。(マタイ 27:41-42)


兵士たちも、一般のユダヤ人たちも、宗教指導者たちも、みんなそろって、まあ、なんてひどいことをイエス様に言ったのでしょうか。そう思いませんか。だってイエス様は、そんなひどいことを言われるような罪を何も犯していないわけですから。
でも、視点を変えてよく考えてみると、彼らの言っている事は、間違ってはいないと言えます。どういうことでしょうか。それは、彼らのひどいことばが、罪人とはどれほどみじめで、どれほど愚かであるかということを証明しているからです。
罪人とは、つばきをかけられて、棒切れで叩かれても、何の反抗もできない存在なのです。
罪人とは、「自分を救ってみろ」と言われても、自分で自分を救えない、どうすることもできない存在なのです。苦しみもがいている自分自身を、自分の力ではどうすることもできない、これは罪人の現実の姿なのです。この場面は、「罪人が受ける仕打ちとは、こういうものだ」と神様がイエス様を通して私たちに見せて下さっているのです。その仕打ちを、イエス様が代表して受けて下さっています。


イエス様を罵っているローマ軍の兵士たち、一般のユダヤ人、ユダヤの指導者たちである祭司長、律法学者、長老たちのことを考えてみましょう。彼らもみんな罪人です。しかし、彼らは、自分の罪に気づいていません。だからこそ、こんなひどいことを言っています。罪深い者たちが、罪人の代表となって下さったイエス様にひどいことを言っています。これはどういうことでしょうか。自分で自分をあざけっているということなのです。このとき、自分で自分の罪深さを気づいていないからこそ、よけいにみじめなのです。そして、これが多くの人の姿なのですね。
証しや伝道をすると、よく聞くでしょう。
「私は、警察に捕まるような悪い事はしてませんよ」
「これぐらいは、みんなやっていることじゃないですか」
「あなたも罪人ですよ」と言われると、怒り出す人もいます。
「人を罪人扱いしやがって、お前はナニ様だ!俺はあんたから罪人なんて呼ばれる筋合いはない!」


デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの代表作である『裸の王様』をご存知でしょうか。1837年発表ですので、日本では江戸時代の終わり頃です。1837年といえば、大阪で大塩平八郎の乱が起こった年です。それはさておき、『裸の王様』はこんな話です。


新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来ます。彼らは何と、馬鹿者には見えない不思議な布地を織る事ができると言います。ということは、賢い者には見えるということです。王様は大喜びで注文します。仕事場にでき具合を見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えません。王様はうろたえますが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかありません。家来は家来で、自分たちにも見えないのですが、そうとは言い出せず、同じように衣装を褒めます。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨みます。見物人も馬鹿者と思われてはいけないと思い、同じように衣装を誉めます。しかし、しばらくたって見物人の中の小さな子供の一人が、大声で叫びます。
「王様は裸だよ!」


この童話はどんなことを言っているのでしょうか。現実を見る事のできない滑稽さを言っているのですね。多くの人は、自分がどれほど罪深いかという現実を知りません。また、知ろうとしません。もし、知ったならその現実に愕然として、その解決はどこにあるのか求めるはずです。


罪深さを意識していようが、いまいが、人間はみんな罪人です。
ローマ人の手紙3:23に、このように書かれています。


すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができず、(ローマ3:23)


だからこそ、イエス様は、人間の罪を全部背負って、十字架にかかり、ひどい仕打ちを受けて下さったのです。


先ほど、罪人の姿はみじめなものだと申し上げました。罵られて当然、バカにされて笑われて当然、侮辱されて当然なのです。人は、罪人の惨めな姿を見て笑います。
先ほどの童話に出てきた裸の王様を見て、パレードを見物していた人の中には、心で笑っていた人もたくさんいたと思います。変な格好をしていると人は笑うのです。


しかし、神様はそんな哀れな人間の現実を見ても笑われる事はありません。それどころか、そんな惨めな私たち罪人を見て憐れんでくださり、イエス様を十字架にかけて下さったのです。ここに救いがあります。私たちがどれほど変な姿でも、惨めでも、ぼろぼろでも決して、無視したり、軽視したり、バカにすることはなさいません。そんな神様が私たちとともにいてくださるのです。ここに私たちの希望があります。


私たちは、よく考えます。「こんな私は、神様の前に立てるのだろうか」と。こんなことをいくら考えて、悩んだところで神様の前に立つ事はできません。なぜなら、どんなに一生懸命に頑張って努力しても、修行しても100%完全で正しい人間になることができないからです。
神様は、私たちがどんな格好をしているか、どんな状況かということを問うておられません。
それは、私たちが勝手に気にしているだけです。そのままの姿で神様のもとへ行く事、それが神様のお心なのです。「こんな罪深い私ですが、全部あなたにお委ねします」と決心して従うときに、私たちは変えられていくのです。この継続が信仰の成長につながるのです。
最後に、ローマ人の手紙5:8を読んでお祈りしましょう。


しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ人5:8)



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ユダの裏切り

「ユダの裏切り」  マタイの福音書 26:14-25  2008-8-17

ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男

今日は、マタイの福音書 26:14-25を中心テキストにして、「ユダの裏切り」という題でメッセージをします。このユダは、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。「イスカリオテ(イーシュ・カリッヨート)」とはヘブライ語で「カリオテの人」を意味します。カリオテとはユダヤ地方にある村の名前です。

イスカリオテとはヘブライ語で「カリオテの人」を意味し、カリオテとはユダヤ地方の村の名前。

どうして、わざわざ自分の生まれ育った村を自分の名前の前につけたのでしょうか。それは、イエス様の弟子たちの中にもう一人ユダと言う名前の人がいたからです。では、ここで質問です。それでは、イスカリオテのユダとは違う、もう一人のユダには別名がありました。その別名は何と言うでしょうか。正解は、タダイです。

タダイと呼ばれるユダ

タダイと呼ばれるユダもイエス・キリストの12弟子(使徒)の一人です。イスカリオテのユダがあまりにも有名なので、タダイと呼ばれるユダは影が薄くなっています。ユダと言うとイスカリオテのユダとすぐに出てきても、タダイと呼ばれるユダはなかなか出てきませんね。

この際、イエス様の12弟子の復習をしておきましょう。12弟子全部の覚え方があります。知ってますか。簡単に覚える方法を考えました。上野式12弟子暗記法です。知りたいですか。じゃあ、教えます。12弟子の最初の字だけを並べます。マタイならマ、ヤコブならヤと並べていきます。日本人に覚えやすい文を考えました。それはこうです。

「やまと ゆゆし ぴしゃ あばよ」

戦艦大和を知ってますね。「大和」が敵の攻撃を受けて、「由々し」い状態になりました。

「由々しい」というのは、「重大である。容易ならない」という意味

そこで、大和は、「ぴしゃ」と敵の攻撃をかわして、「あばよ」と去って行った、というストーリーを考えました。

「やまと ゆゆし ぴしゃ あばよ」です。

これを覚えたら、あとは、文字を当てはめていけばいいわけです。縦に読んで下さい。

コブ(大ヤコブ=ゼベダイの子)、ヨハネの兄弟
タイ
マス

ダ(イスカリオテ)
ダ(タダイ)
モン(ペテロ)・・アンデレの兄

リポ
モン(熱心党)
コブ(小ヤコブ=アルパヨの子)

ンデレ・・ペテロの弟
ルトロマイ
ハネ・・ヤコブの兄弟

さて、12弟子の一人であるイスカリオテのユダの話に戻りましょう。今日のメッセージの箇所を読んでいて、疑問に思った事がありませんか。イエス様は、あれだけ多くの人を助けるために数々の奇跡を行ないながら、なぜ自分の弟子の一人であるイスカリオテのユダをきちんと指導する事ができなかったのかということです。

そうは思いませんか。ですから、多くの人は、こう言います。イスカリオテのユダは、普通の人間ではなく、特別にどん欲で、悪い奴だったと・・・。こう結論づけると、なんとか辻褄が合います。

マタイの福音書を記したマタイは、後々まで残る聖書の記事を書くとき、教会にとってこのような恥ずべき事を隠しておいてもよかったはずです。こうするのを、くさいものにふたをすると言いますね。しかし、マタイは、敢えてこの恥ずべき部分をさらけ出して書きました。イエス様を裏切ったのを書いたという事は、どういう意味なのでしょうか。

それは、イスカリオテのユダのしたことは、何も特別なことではなく、普通の人間がすることなんだ、すなわち人間という者は、こういうものなんだということを示すためではなかったかと思います。人間の罪深い本質を暴き出しているのですね。即ち、イスカリオテのユダの歩んだ道が、私たちの歩みなんだということです。イエス様から教えられ、よいものをいっぱいもらって、一生この方について行くぞ、と固い決心をしても、何かあるとすぐに、裏切ってしまう・・・。

イエス様の一番弟子と言われたシモン・ペテロもそうでしたね。弟子たちの歩んだ道を見てみると、私たちの歩みと重なってしまうところがあるのではないでしょうか。

イスカリオテのユダが裏切る事はイエス様も知っておられた事がわかります、
マタイ26:21を見てみましょう。

みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」(マタイ26:21)

これを聞いた時の弟子たちの反応を見てみましょう。22節です。

すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。(マタイ26:22)

このときの弟子たちの気持ちを考えてみると面白いですね。人間は、こういうとき、すぐに誰か他の人のことを考えませんか。「あいつじゃないか、こいつじゃないか」と。しかし、弟子たちは、「主よ。まさか私のことではないでしょう」と、言ったのです。

これはどういう気持ちを表しているのでしょうか。「主よ。まさか私のことではないでしょう」ということばの奥深くに、ひょっとしたら、自分が裏切ってしまうのかもしれないという、何やら得体の知れない恐ろしい気持ちがあったので、こんな聞き方をしたのではないかと思います。弟子たちは、イエス様を慕っていながらも、自分の内側にある何とも言えない罪深さに怖れおののきつつ、それを自分の力でコントロールできない自分自身について葛藤していたのではないでしょうか。イエス様は言われました。23節です。

イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
(マタイ26:23)


続けて厳しい事を言われます。24節の後半です。

「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:24)

このときのユダの反応を見てみましょう。25節です。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。
「先生。まさか私のことではないでしょう。」(マタイ26:25


こんなことを言う者に対して、私たちは普通どう言いますか。そうですね。
こんなときは、「しらばっくれんじゃねえぞ!この野郎!」ということばがピッタリです。

でも、ユダの気持ちをよく考えてみると、意外と本音で正直な気持ちを言っているのではないかなと思うのです。イエス様から、「生まれなかったほうがよかった」とまで言われるようなひどいことはしていない、少しは悪いとは思うが、そこまでの悪い事ではないでしょう、という気持ちです。

私たちにもそういうところはありませんか。そのように考えるなら、ユダは特別に悪い事をしているのではない、人間の弱さの延長上にこの行動が出て来たととらえることができます。つまり、これは、2千年前にユダという悪い奴がいて、イエス様を裏切ったのだと見るのではなく、現代に生きる罪深い私たち自身の姿なのだということです。

もう一つ、今日の聖書箇所での疑問点をあげてみましょう。それは、イエス様はどうして、自分を裏切る者と一緒に食事の席につかれたのでしょうか。もう一度、23節を見て下さい。

イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」(マタイ26:23)

「鉢に手を浸す」とはどういうことでしょうか。新共同訳聖書は、わかりやすく訳しています。

「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」
(マタイ26:23)<新共同訳聖書>


当時、ユダヤ人にとって、一緒に食事をするということは、特別に親しい交わりを意味しました。普通、裏切る事がわかっている者と一緒に食事をして親しい交わりをもつことはしません。しかし、イエス様はユダの裏切りをわかっていながら、敢えて、彼と食事をされました。イエス様は、裏切りを知っていながらも、それを止める事をなさらなかった。じゃあ、イエス様も同罪になってしまうではありませんか。

そうなんです。イエス様は、全部知っていながら、ユダと食事をされ、敢えて裏切りを止める事をなさらなかったのです。なぜですか。それは、ユダの罪を自分の罪とされたからです。罪深いユダの生き方を自分の生き方とされたのです。

イスカリオテのユダは、罪深い私たちの代表です。私たちの罪深い姿をユダの中に見る事ができます。イエス様は、「お前は何と言う奴だ。またこんな罪を犯して!この馬鹿者!」とさばかれるお方ではありません。主イエス御自身が、罪深い私たちと一つになって下さったのです。そして、その罪故に、罪のさばきの身代わりとして十字架にかかってくださった。
ここに、私たちに対するイエス様の深い愛を見る事ができます。

イエス様の十字架を通しての救いは、とてもじゃないが救われないと思われる者のための救いです。

今日、もう一度、イエス様が私たちのためにどんなことを十字架でして下さったのか思い起こしてみましょう。最後に、第一ヨハネ3:16を読んでお祈りしましょう。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3:16)

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賢い娘と愚かな娘

「賢い娘と愚かな娘」  マタイの福音書 25:1-13      2008-7-27

ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男

今日は、マタイの福音書 25:1-13を中心テキストにして、「賢い娘と愚かな娘」という題でメッセージをします。

最初にこのエンブレムを見ていただきましょう。

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これはあるミッションスクールのエンブレムです。どこの学校かと言うと、下にローマ字で書いてありますね。大阪にある有名なミッションスクールである大阪女学院のエンブレムです。制服にも使われています。明治17年(1884年)1月7日、A.D.ヘール宣教師が『ウヰルミナ女学校=維耳美那女学校=Wilmina Girl's School』を、米国カンバーランド長老教会のミッションスクールとして、西区川口町外国人居留地22番地に創設、開校しました。それが、大阪女学院のはじまりです。最初の生徒数は3名でした。それから、もう125年の伝統を持っています。

それが今日のメッセージと何の関係があるのか、と思われる方がいるかもしれません。この五角形の中に描かれているのは、何かわかりますか。10人の娘が描かれています。マタイ25に出てくる10人の娘たちのことです。

ヨハン・セバスチャン・バッハという有名な音楽家がいますが、バッハはこの10人の娘たちの物語を題材にしてカンタータを作りました。

バッハ

このカンタータは、当時結婚式でよく歌われたほど、大変好まれていたといわれています。カンタータって、何かご存知ですか。辞書には次のように出ていました。

カンタータ【(イタリア)cantata】・・17、18世紀のバロック時代に発展した声楽曲の一形式。独唱・重唱・合唱などに器楽・管弦楽の伴奏がついた大規模な声楽曲。

このマタイの福音書25章は、イエス様が十字架にかかられる前に話されたたとえ話です。マタイ25:1を見てみましょう。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。(マタイ25:1)

普通、死ぬ事がわかっている場合、喜びの象徴である結婚式のことを話す事はしません。しかし、イエス様は、ご自身の十字架の死を前にして、結婚式を天の国にたとえて話されています。自分の死を前にして喜びを語るというイエス様のお気持ちを考えてみましょう。それほど、イエス様は、弟子たちに天の国の喜びを伝えたい気持ちでいっぱいだったのでしょうね。

1節に言われているように、「十人の娘」は、花婿を出迎える「花嫁の友」たちです。花婿を出迎える「花嫁の友」たちと言われても、ピンときませんね。アメリカの結婚式では、花嫁を迎えるのは、花婿と花婿の友達、花嫁の友達ですよね。そこに花嫁が父親に連れられて登場します。

ところがユダヤの結婚式は違います。花婿を出迎える「花嫁の友」たちというのは、ユダヤの結婚式の習慣です。ユダヤでは、婚約期間もすでに夫婦のように見られます。ユダヤの結婚式は、婚約して約1年後、法律上すでに夫婦となっていた二人の実質的な夫婦生活が始まることを祝う喜びの祝宴です。その祝宴は、花婿の家で開かれるのが普通で、花婿は夕方になってから花婿の友と一緒に、花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。結婚式が夜に行われるというのもユダヤの結婚式の特徴です。花婿の友人が音頭を取り、花嫁の友人が美しく着飾り、二人を祝宴の席に導き、盛大なパーティーが開かれます。ユダヤの結婚式は、こういうスタイルだとわかっていると、このたとえ話もわかりやすいと思います。

この習慣は日本人にはわかりやすいですね。日本では、「妻をめとる」と言います。めとるって漢字で書けますか。

娶る(めと・る)・・《「妻(め)取る」の意》妻として迎える。

上に「取る」を、下に「女」を書いて、「娶る」です。取るというと、花嫁をかっぱらってくるようなイメージがありますが、もっと優しく優雅に言うと、「妻として迎える」ということです。こうしてみると、日本人の結婚思想とユダヤ人の結婚思想は似ていますね。

さて、マタイ25に戻ります。花嫁の友人の娘たち10人は、家の前であかりをともして花婿を待っています。この10人の娘たちは、非常に重要な役割をもっていました。彼女らは、新郎新婦のお供をして婚宴の席に入るために選ばれた娘たちでした。この10人の娘たちが、二つのグループに分けられています。愚かな5人と、賢い5人です。2節です。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。(マタイ25:2)

花婿がなかなか来なかったので、10人の娘たちはみんなうとうとと眠り込んでしまいました。夜中になって、「さあ、花婿が来たぞ!」という声がしました。娘たちは、跳ね起きて自分のともしびを整えました。ここで、愚かな娘たちと、賢い娘たちの違いがはっきりとわかるようになります。愚かな娘たちが、賢い娘たちに言います。8節です。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』(マタイ25:8)

賢い娘たちは、どんな対応をするでしょうか。9節です。

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』(マタイ25:9)


なんか、意地悪な感じがしませんか。そこで仕方なく、お店に行くと、その間に花婿が来てしまいました。賢い5人の娘たちは、祝宴に行き、ドアが閉められてしまいました。10節です。

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(マタイ25:10)

後から行った愚かな5人の娘たちは、私たちも入れて下さいと頼みましたが、入れてもらえませんでした。11節、12節です。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。(マタイ25:11-12)

厳しいですね。かわいそうですね。
こんなたとえ話ですが、話の中で気になる事があります。
予備の油を準備していな語った娘たちが、「私たちにも少し分けて下さい」と頼んだときに、どうして、分けてあげなかったのでしょうか。

「あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません」ということばに注目して下さい。ということは、全然なかったわけではないのですね。少しでも分けてあげるのが隣人愛ではないかと思いませんか。イエス様はどうして、「分けてあげなさい」と、言われなかったのでしょうか。

それは、「賢い娘」の「賢い」ということばにヒントがあります。「賢い」と日本語に訳されている原文のギリシア語では、フロニモスということばが使われています。フロニモスということばは、「思慮深い」という意味です。

「賢い」と日本語に訳されているギリシア語 → フロニモス〈ギ〉=「思慮深い」

イエス様が、ここで言われている事は、「賢い娘のように道徳的に立派に真面目に生きなさい」ということではありません。灯りをともす油を準備していた娘たちを、賢い娘、即ち、フロニモス「思慮深い」娘たちだと言っておられるのです。このたとえ話では、必要なものを準備することの大切さが、語られています。

昨日は、エリックと祐美子さんの結婚式を執り行わせてもらいました。コスタメサにあるお店の野外の素敵なお庭でしました。いろんな事情があって、リハーサルなしでしました。プログラムが進んで、私と花婿のエリックが、花嫁の祐美子さんを迎えました。花嫁の入場です。祐美子さん綺麗でした。お祈りが終わり、メッセージが終わって誓約に移ろうとするとき、祐美子さんが言いました。
「指輪を渡すのを忘れた!」
指輪は前もって、私が預かることになっていました。私も、うっかりしていました。誓約の後に、指輪交換があるので、エリックと祐美子さんと私の3人は、「えらいこっちゃ!」と思って、固まってしまいました。祐美子さんが「指輪がない!No ring!」と叫びました。前代未聞です。エリックのお父さんが急いで取りに行ってくれました。よく準備をしておかないと本番でえらい目に会います。

ともしびの予備の油を準備していなかったので、5人の娘たちはえらい目に会いました。油は何を意味するのでしょうか。聖書学者たちは、いろんな解釈をします。
一般には、「聖霊」とか「祈り」と解釈されています。そのように解釈しても間違いとは言えません。

けれども、イエス様は、油が何か、何も説明しておられません。 何も説明しておられないということは、私たち一人一人に、ふさわしい油があるということではないかと思います。
ですから、「油を分けてください」と頼む愚かな娘たちの願いを拒んだのは、決して意地悪からではありません。人に頼ることができないもの、自分の責任においてしか灯すことができないものがあることを示しています。

例えば、信仰告白のことを考えて下さい。いくら、心を込めて誠実に話しても、最終的には、その人、本人が罪を告白してイエス・キリストを個人的に救い主と受け入れなければなりません。親でも親友でも、恋人でも、夫婦でも代わってしてあげることができないのです。

花婿は誰を表していますか。イエス・キリストです。先週のメッセージ、マタイ24章でも触れました。花婿が突然やってくることは、イエス様がもう一度この地上に来られること、即ち、キリストの再臨のことを言っています。イエス様が再び来られるときは、婚礼のように喜びの日となります。その日に備えて、私たちがあかりを灯しているかどうか問われています。更に、あかりを灯し続ける油を十分に準備しているかもが問われていると思います。イエス様は言われます。13節です。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25:13)

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終末時代にどう生きる?

「終末時代にどう生きる?」  マタイの福音書 24:35-51      2008-7-20

ロサンゼルスぶどうの木国際教会牧師  上野五男

今日は、マタイの福音書 24:35-51を中心テキストにして、「終末時代にどう生きる?」という題でメッセージをします。

この24章は、終末時代にどんなことが起こるかということをイエス様が預言しておられる箇所です。この世の中には、今の科学文明はこれからもどんどん発展していって、素晴らしい世界になると考えている人もいます。しかし、聖書はそうは言ってはいません。旧約聖書と新約聖書を見てみますと、神の計画がわかります。ある時がくれば今のような時代は終わってしまい、まったく違う時代になるというのが聖書に言われている神の計画です。マタイ24:34を見てみましょう。

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24:34)

これはイエス様のおことばです。「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」ということばを言い換えればどうなりますか。「これらのことが全部起こってしまえば、
この時代は過ぎ去る」ということですね。即ち、この時代、この世界は終わり、まったく違う時代、世界になるということです。それは、イエス・キリストがもう一度この世界に来られることによって始まります。復活されて天に帰られたキリストがもう一度この世に来られること、それをキリストの再臨と言います。漢字で書くと「再び臨む」と書きます。英語の方がわかりやすいですね。
The second coming of Jesus Christです。

再臨 = The second coming of Jesus Christ

キリストが再臨される前にどんなことが起こるのでしょうか。その前兆があります。それが、さっき触れた「これらのことが全部おこってしまうまでは」の「これらのこと」です。
さて、どんなことが起こるのか知りたいですよね。弟子たちも興味津々だったようで、イエス様に聞いています。マタイ24:3です。


イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24:3)

イエス様は答えられます。前兆の一つ目は、偽キリストが現れるということです。
マタイ24:5です。

わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(マタイ24:5)

その代表的な者が統一教会の教祖である文鮮明です。他にもたくさんの者たちが「自分はキリストだ」と言っています。

前兆の二つ目は、戦争と民族紛争が頻発するということです。
マタイ24:6節と7節の前半です。

また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、(マタイ24:6節と7節の前半)

戦争は残酷で悲惨なものとわかっているのに、人間は戦争をやめません。民族が違っても、仲良くすればいいとわかっているのに、民族紛争が世界中で起こっています。昔から、民族紛争はあるのですが、ここ数年増えてきている傾向がありますね。アフリカのスーダンで起こっているダルフール紛争を知っていますか。スーダン政府に支援されたアラブ系住民の民兵組織である「ジャンジャウィード」と、非アラブ系住民との抗争です。戦闘に巻き込まれた一般人が、10万人以上殺害され、100万人以上難民化していると言われています。正確な死者や難民の数は分かりません。本当は、公表されている数よりももっと多いでしょう。こんな紛争が世界のあちこちで起こっています。
前兆の三つ目は地震です。マタイ24:7の後半です。

方々にききんと地震が起こります。(マタイ24:7)
この間も中国の四川省で大地震がありました。はっきりした死者の数はわかりませんが、10万人以上の人たちが亡くなったのではないかと言われています。日本でも地震が頻発するようになってきました。私の子供の頃を思い出してみると、地震はありましたが、今ほど頻繁には起こっていなかった記憶があります。
偽キリスト、戦争、紛争、地震の他にも、偽預言者がたくさん現れる、迫害が起こる、不法がはびこり多くの人たちの愛が冷たくなると言っています。

次に考えてみましょう。最初にイエス様が来られたのは、人類の罪のさばきの身代わりとして、十字架にかかるためでした。2回目に来られるのは何のためですか。ひとことでズバリ言えば、さばくためです。そのことをイエス様は旧約時代の出来事を引用して言っておられます。
37節を見てみましょう。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。(マタイ24:37)

ノアの時代を思い出してみましょう。旧約時代の創世記6-8章にその出来事が記されています。
地上に人の悪が増大したのを見て心を痛められた神は、さばきを下そうとして言われます。
創世記6:13です。

すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らの故に暴虐で満ちているからだ。それで今私は、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6:13)

ノアの洪水が起こる前と、現代の世界は似ていますね。共通点がたくさんあります。
「人の子」というのは、イエス・キリストのことです。
「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」というのは、不法がはびこるこの世の中をさばくためにイエス様が来られるということを意味しています。

さばきのメッセージは、聞く方もいやでしょう?する方もいやなものです。
「死んだ後、さばかれて地獄へ行く」なんてメッセージはしたくありませんよね。
ナルニヤ物語の原作者である作家のC.Sルイスは言っています。
「もし出来るものなら、地獄の教えほど、キリスト教の中から取り除きたいと思う教えがあるだろうか。・・・もし、『すべての人が救われるんですよ』と言えるなら、どんな犠牲をも払いたいと思うことがある」。
私も同感です。気持ちとしては、さばきと地獄のメッセージは避けたいです。しかし、聖書には、はっきりとさばきが書かれているので、説教者は、さばきのメッセージを省略することはできません。「死んだ後、どこに行くのか」というのは重大な問題です。死んだ後に神のさばきはあるのかどうかということは、一人一人真剣に考えなければなりません。よくこういうことを言う人がいます。
「人間、死んでしまえば、それでその人の存在はすべてなくなってしまうんだよ。死後の世界なんてない!」と。死んだ後の世界はないと信じる事は自由です。しかし、それはその人の信仰なのです。死んだ後の世界はないと誰も証明する事はできません。聖書が言うように、死んだ後の世界があればどうするのでしょうか。
聖書の神概念からも「さばき」について考えてみましょう。
神は愛ですが、同時に、まっく聖い方であられ、義なる方であられます。義とは、正しいということ、正義ということです。さばきとは罪に対しての刑罰です。神が義であるならば、罪に対して正しいさばきを行なわなければなりません。もしも、さばきと地獄がなければ、「神は義でない」ということになっています。
こういうことを考えてみましょう。何人もの人を無差別に殺すという極悪非道の犯罪を犯した者が、全然反省をしない、それどころか、「殺された方が悪いんだ」なんてうそぶいて、無罪放免となれば、どう思いますか。私たちは、赦せないと思います。正しい裁きがなされないと、私たちは、「おかしいじゃないか、ダメだよ、きっちりとさばきをしなければ!」と思うのです。私たちはみんな、人のことについては、正しいさばきをしなければならないという意識をもっているのです。この地上では、法律の網の目をくぐって悪い事をしている人たちがたくさんいます。義なる神は、そういう罪も全部きっちりとさばかれます。大きい罪から小さい罪までぜんぶさばかれます。それでこそ、聖書の神は正しい神であられるのです。

ところが人間はどうでしょうか。犯罪となるような罪は犯さなくても、小さい罪は毎日犯しています。自己中心から来るねたみ、憎しみ、怒り、高慢などです。「罪を犯さないぞ!」と、どんなに頑張っても、罪を犯してしまいます。そうです。人間は罪を犯さずには生きられない存在なのです。そのために、イエス様が十字架にかかり、人間の罪のさばきの身代わりとして血を流して死んで下さったのです。そして、イエス・キリストを信じるだけで、正しい者と認めてあげると言われたのです。信じるだけで救われるというのは、すごいことです。だから、グッドニュース、福音なのです。


こんなすごい道を開いて下さったのにもかかわらず、多くの人はイエス・キリストに対して無関心です。日本人の99%は、キリストを信じていません。世界を見ても、多くの人たちは、
神に逆らい、自分を神として生きています。そのために、多くの争いが起こり、不法がはびこっています。更には、地球温暖化、公害などの環境問題も人間の罪の結果です。
ですから、この悪と不法に満ちた世界をさばくために、イエス・キリストは、この世に来られると言われます。
もしも、来る日が何年何月何日とわかっていると、人はずるいですから、その前日に信じればいいやと思う人が出てくるでしょうね。だから、その日、キリストの再臨の日は敢えて隠されています。
マタイ24:42です。

あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。(マタイ24:42)

マタイ24:44も見てみましょう。

なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24:44)

だから、私たちは、聖書を通して語られる神様の警告をしっかり聞かなければなりません。
「世の終わりなんか来ないよ。おもしろ楽しく生きればいいんだ」なんて言っていると、ノアの時代に滅んだ人と同じようになってしまいます。マタイ24:38-39です。

洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ24:38-39)

だから、どうなのですか。警告に耳を傾けて、神のことばに従って歩む事が大切です。
飛行機に乗ると、フライトアテンダントが緊急事態に備えて酸素吸入の方法やライフジャケットの付け方をデモンストレーションしてくれます。私の経験上、乗客を見ていると、多くの人は真剣に聞いていません。もしも、飛行機が事故を起こして不時着するような事態になれば、パニックになるでしょう。最悪な場合、ライフジャケットを使う事ができないで、命を失うかもしれません。
なぜですか。フライトアテンダントの言う事を聞いていなかったからです。

神様は、聖書を通して、私たちに警告して下さいます。「キリストがもう一度、この地上にやって来られるから、準備しなさい」と。イエス様も、言われます。42節です。

「だから、目をさましていなさい。」(マタイ24:42)

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Tag : マタイ 福音書

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